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映画「JOKER」微ネタバレ感想・考察/階段を駆け降りていった男

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こんにちはmacomoです。
ホアキン・フェニックス主演映画「JOKER」を観てきました。
 

 

公開初日から絶賛につぐ絶賛の嵐で、世間の前評判と僕の期待のとおりにやっぱりこの映画は最高に美しく、涙が出るくらい狂った映画でした。
 
今日はこの映画のことを書きます。僕がこの映画に注目した、ひとつのモチーフについて。あるいはアーサーという男がなにを通り抜けて、悪の象徴ジョーカーになっていったのか?という視点でみた感想です。
 
具体的には、階段について。
映画のなかにあらわれる階段に注目して鑑賞したお話です。
 
2回目以降の鑑賞を予定している方には、ああ、そうかそこに注目するとけっこうおもしろいな、という視点をもってもらえるような記事をめざしました。よろしければご覧ください。
 
ただし本編の内容にごくわずかではありますが言及していますので、一切の情報を得たくない未見の方はここで記事を閉じてください。
 
それでは、よろしくお願いします。
 

 

象徴的に描かれる「階段」

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「上り階段と下り階段、ぜんぶ足したらどっちのほうが多い?」こたえは「同じ」です。階段は、のぼる者にとっては上り階段になり、おりる者にとっては下り階段になります。主観によって上り下りの性質は変わりますが、階段の段数はいつだって同じです。
 
さて本作において、階段はいくつもの重要なシーンで登場しました。
 
自宅の近くの長い石階段。
 
地下鉄と地上をつなぐ階段。
 
ピエロ派遣会社の階段。
 
アーカム収容病院のらせん階段。
 
本作のいずれもターニングポイントで出てきた階段です。
 
主人公アーサーのおかれた状況は、階段を通るたびに変化しました。心境もまた、階段を通り抜けるたびに変化していくよう表現されています。このことに注意して観察すると、アーサーが悪へ堕落していくことが、はたして受動的だったのか、能動的だったのかが分かるのではないか?と僕は考えました。
 
階段は、作品のキーヴィジュアルに使われています。ですから、映画を作る側には階段になんらかのメッセージを込めているのではないだろうか、と。
 

成長と発展のための「階段」など、この映画にはない

一般的に階段には、ステップアップの象徴という意味合いがあります。成長と発展の見立て装置。それが、よくある階段のイメージです。
 
または試練の象徴とみなすこともあります。下から上にのぼっていき、のぼりつめたところに変身した新しい自分を見出す、その演出として階段はいままで様々な映画のなかで使われてきました。
 
あるいは、アクション映画などにおいてはダイナミックな上下運動とテクニカルなカメラワークを見せるために階段が戦場そのものになることもあります。
 
はたして本作では、そういうありがちな階段の使われ方がぜんぜんありませんでした。
 

堕ちていくための動線

本作における階段とは、堕ちていくための動線としての階段でした。アーサーは階段をおりるときにこそ、なぜか生き生きとしていきます。一般的には階段をのぼるなかで成長が表現されるところが、逆。階段を下りれば下りるほど、アーサーのなかのジョーカー的性質が濃くなり、感情の深みが増していきます。階段を下りる、アーサーではなくなっていく、また階段をおりる、ジョーカーになっていく。
 
反対にわずか数段でも階段をあがるなら、アーサーはほんのちょっと人間になります。たとえば、病院の入り口にちょっと数段だけ階段様の部分があるのですが、その上にいたアーサーにはまだ人間らしさがありました。
 

対比的モチーフとしてのすべり降り棒

それから、本作において階段が重要な意味をもつことを示すもうひとつの注目ポイントがあります。それは中盤のシーンです。幼いブルース・ウェインと邂逅をはたす中盤の短い一コマ。
 
ここでふたりは塀をはさんで平行に移動していきます。そのとき、ブルースはちょっとだけ段差をさがるのですが、ここでなんと彼は階段以外の手段でぴょんとなめらかな移動を続けます。すべり降り棒です。僕はショックをうけました。なぜ階段ではないのか!?
 
このことからも、おそらく製作者・監督は意図してアーサーと階段というモチーフを強く関連づけている可能性が読み取れます。
 
この映画において階段とはジョーカーのためだけにあり、アーサーがジョーカーになるための装置としての役割があるため、バットマン(にやがてなる少年)には階段を一段とて下がらせたくなかった。こんな一瞬の描写においても階段を切り離したのではないでしょうか。
 

階段はすべり落ちない。自分の足で降りていく

ここで一旦最初の論旨にもどります。はたしてアーサーは悪にすすんでなったのか、あるいは社会の闇に飲み込まれるままジョーカーになってしまったのか。ここは鑑賞者の中でも意見が分かれるところだろうと思います。ジョーカーになりたかったのか、ジョーカーになりたくなかったのか。階段に注目して観た僕の意見では、アーサーはジョーカーになりたくてなった、と考えています。
 
なぜなら、階段とは滑り落ちるものではないからです。上がるにせよ下がるにせよ、自分の足で進むのが階段というものです。たとえ転げ落ちるとして、やはりそれは自分で進もうとしたーーさがろうとした事実なしにはありえないことです。
 
その意味で、これは転落の映画ではありません。閉塞した状況によってやむにやまれず悪になった男の映画ではありませんでした。
 
これは降りていった映画です。もともと底辺にいた者が、もっと下に堕ちていくために自分の足で階段を下りていった者の物語です。それも、楽しそうに。愉快に。気持ちよく。ひとあし、ひとあし、自分の足で悪にむかって踊るように階段を駆け堕ちていく、下へ、下へ、笑いながら降りていく、その果ての変身を描く物語でした。
 

まとめ

階段には上りも下りもない、のぼる者にはのぼりで、くだる者にはくだり階段になる。そしてすべり降りるものではなく、自分の足で降りていくもの。社会が悪にさせた。民衆が悪にさせた。ちがうんじゃないか、と思いました。アーサーが、自分で階段を下りて行った、そういう映画なんだと思いました。
 
2回目観にいく方は、ぜひ作中の階段の表現に目を凝らしてみてください。物語の面白さ、展開の衝撃、映像の完成度、それらを味わいながら、ついでに階段のことも気にしてみる。それはそれで、また面白い鑑賞体験になるはずです。
 
それでは、また。