ハースストーンと愛妻、あと好きなもの

3児の父・社会人ハースストーンファンの趣味と備忘録

僕の人生に影響を与えた忘れられない5冊の本

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こんにちは、macomoです。
今日はいつもとすこし向きを変えて、本のことを書きます。
 
いつかなにかのドラマで聞いたセリフだと思うのですが、「自己紹介するなら自分の好きなもののことを伝えあえばいい」という話がありました。僕はそれに賛成です。好きなもののことをしゃべる時、人は決まって笑顔だと思うからです。だから今回は、自分が何者かを伝える気持ちで、好きな読書について書くことにしました。
 
中学~高校生のころ、僕は本の虫で、ひまがあれば図書館か古本屋にいくのが習慣でした。いまでこそ昔にくらべて読書の量は減ってしまっているのですが、根っこの部分にある「本が好き」という気持ちは変わっていません。
 
さて、いつも読みにきてくださるハースストーンプレイヤーの皆さんにはびっくりするくらい関係ない記事でごめんなさい。でもこのブログは、ハースストーンと、愛妻と、あと「好きなもの」のことを書くブログです。そういえばそうだったなと自分でもナイスな言い訳が見つかったものだと思います。
 
というわけで、僕のことを、僕の読書歴を通じて笑顔で語ります。その本が、僕をどういう感情にさせ、どうして心に残っているのかを書きます。できるだけ言葉を尽くして本の魅力を伝えたいです。この記事が誰かに届いて、本を読んでみたいなと思っていただけるようになることを目指しました。見も蓋もないことをいえば、書評記事です。あるいは個人的な読書経験と、その記憶と、忘れられない感情のお話です。たくさんだと書ききれないので、特に心に刻まれている5冊を選り抜きました。よろしければ、お読みください。
 

王さまたんけんたい

王さまたんけんたい (フォア文庫)

王さまたんけんたい (フォア文庫)

 

 

僕の本好きとしての人生は、この一冊からはじまりました。
 
小学校1~2年生くらいだったかと思います。この本は、小さい頃に父と母が買ってきてくれたものです。それまで絵本にしか触れたことがなかった僕は、文字がびっしり書いてある本を手にしてすっかり大人の仲間入りを果たした気分になりました。
 
小説っていうのか。これが僕の本なんだ。僕だけの本だ。友達はきっとこんなの持ってない。僕はもう大人だ。大人だからたくさん文字が読めるんだ。そんな優越感に支えられて、僕はこの本を何度も何度も繰り返し読みました。
 
夏の暑い日、タタミに寝転がって読み、冬にはふとんにもぐりこんで読み、朝と昼と夜に同じ話を読みました。ゲームは1日1時間だったし、テレビの権利はじいちゃんが独占していたので、僕は本に多くの時間をそそぎました。僕は幸福でした。
 
そして輪をかけて幸運だったことは、人生最初の本にこれを選んだ父と母のブックチョイスが完璧だったことです。それくらいこの本は面白かったのです。再読にたえるだけの骨太な面白さがあり、想像力をふくらませることの快感を僕に教えてくれました。何度読んでも同じところで笑えて、同じところで感動できるし、子供ながらに「せつない」という気持ちが分かったつもりになれるのが特に良かったと思っています。
 
内容は、わがままで困ったちゃんな「王さま」の愉快な日常を描く連作短編なのですが、表題作の「王さまたんけんたい」という掌編が特に記憶に残っています。
 
王さまが気まぐれに「ライオンを銃で撃ってみたい!」と思いついたところから物語ははじまり(もうすでに面白い!)、国中の家来をひきつれてアフリカへ行ったものの、王さまはすべての人とはぐれてたった一人になってしまいます。そこから一匹、また一匹と現地の動物たちを友達にしていくわけなのですが、やがては彼らとの別れを経験し、ちょっとだけ成長してお城に帰っていく、というお話です。特に「マライカ」と名付けたオウムの子がいまも記憶に鮮明で、この名前は20年経っても僕のなかで特別な響きをもつ魔法のような言葉になっています。
 
だからこの記事でもすこしだけマライカのことを掘り下げさせてください。王さまというのはつまりどこの家にもいる「わがままなこども」のメタファーなのですが、そんな王さまよりもっと精神年齢が低いのが生まれたてのオウムの小鳥・マライカです。王さまが幼稚園の年長さんくらいだとすると、マライカは1~2歳くらい。小さな子がもっと小さい子のお世話をするという光景をマライカとのふれあいに見立てています。そうした経験のなかで培われる思いやりや責任感がこの本では表現されているのではないでしょうか。
 
具体的には、マライカとの交流のなかで王さまが「ママ役」を担っていくという過程が面白いんです。いま読み返しても良くできているなぁ、とほとほと感心させられる本です。僕はこの本を読み、物語の持つ力に惹かれる人生を歩みはじめました。
 


正義と微笑(パンドラの匣 収録)

パンドラの匣 (新潮文庫)

パンドラの匣 (新潮文庫)

 

 

ちかごろの中学生は学校から「太宰治は中学生のうちにはまだ読んではいけません」なんて言われると聞いたのですが本当でしょうか? 
 
僕は中学二年生の時に人間失格を読みました。世の中には、人間失格を読んで太宰を好きになる人と嫌いになる人がちょうど半々いる、みたいな俗説も聞いたことがあるのですが、僕はまるっきり前者でした。すっかり虜(とりこ)になり、図書館で順番に借りてきては、鬱々としたひねくれものの内面に寄り添うようにして読みふけり、思春期のさみしさをやわらげる真似事をしていました。
 
そんな太宰治の仕事のなかでとりわけ異質なものとしてファンのあいだではよく知られているのが、この正義と微笑(びしょう)です。
 
どう異質なのか?太宰治なのに、なんだか明るいのです。中二病的な読み味はたしかにあるのですが、どこか明るい。雰囲気が明るく、青春の清らかさを感じられる。きれいな中二病とでも言いましょうか、文章に宿るしなやかな筋肉のほとばしりが、キラキラとまぶしいのです。
 
この本は、ひとりの青年の日記形式で綴られるお話です。また、それを見守るやさしい兄とのお話でもあります。舞台俳優になりたいと夢をもつ芹沢進少年が、日々の暮らしから学び、立ち止まり、また前を目指していくお話です。
 
つまり、夢と、勇気と、青春がつまったお話です。昭和初期の日常なのに、現在にも通じる日記あるあるが随所にあるのもおかしく、読んでいてすがすがしい気分になれます。
 
ちなみにいまだから明かす黒歴史ですが、僕は中学~高校のときに日記を書いていて、ノートが何冊にもなるくらい続けていました。大学生になってその習慣はなくなってしまったのですが、何を隠そう、日記を書き始めたきっかけはこの正義と微笑という本に影響されたからです。僕は太宰治になりたかった。より正確にはこの本の主人公・芹川進くんのようになりたかった。それで日記を書き、太宰治みたいな俺かっけええ!と悦に入っていました。え~っと、恥ずかしいのでこの話はここで忘れてください。
 
 

幻妖草子 西遊記(上下巻) 

幻妖草子 西遊記―地怪篇 (角川スニーカー文庫)

幻妖草子 西遊記―地怪篇 (角川スニーカー文庫)

 

 

幻妖草子 西遊記 天変篇 (角川スニーカー文庫)

幻妖草子 西遊記 天変篇 (角川スニーカー文庫)

 

 

これは、かの有名な西遊記の本――ではありません。西遊記をベースにしたプレイステーションのゲームソフト(コーエーから発売)があり、さらにそれを小説のかたちにしたゲームノベライズの本です。僕はもともとこの原作ゲームが好きで、長編シミュレーションゲームなのに4周全クリしたくらい愛する一本でした。このゲームについて語るとそれはそれで別の記事が必要になるため割愛しますが、うっかりそのノベライズにも手を出すくらいにはハマっていた、という経緯でこの本を手にしたのがきっかけです。
 
これが、衝撃の出会いでした。一般論としてノベライズというものは、つまらないものと相場が決まっています。不出来で、作品愛は感じられず、仕事がないライターが仕方なく回ってきた話を小説らしきものにしてみたよ、みたいなものばかり。あくまでもファンアイテムだからみんな買うし、買った時点で満足だから読まなくてもいいよね、という(失礼な)認識があったのですが、この本はまるで違いました。
 
まず、読み物としての質の高さに圧倒されます。よほどゲームへの理解が深いか、あるいは西遊記の原典に精通しているか、その両方か。ゲームをやりこんだ僕が読んでもキャラクターたちへの愛に感動し、作者のアレンジが加わっているところにはいちいち納得感がありました。
 
また、文章からイマジネーションが広がっていく特殊な効果も忘れられません。人生で一度も想像をしたことがないくらいの広大なビジョンが脳裏に浮かんだのも鮮烈な体験でした。文字と文字のつながりで、人間の脳にこんな強烈なイメージを想起させることができるのか、と驚いたことを覚えています。
 
あれほど面白いゲームなのに、そのノベライズがゲームよりさらに面白いだなんて。これはノベライズとしては稀(まれ)にして、幸福なる理想形といえます。ノベライズだからと言ってなめてかからず、中には傑作としか呼べないレベルの名著もあるのだと、僕はこの本を通して知りました。
 
それから、この本から僕が学んだことはもう一つあって、それは作家性という概念です。ひらたく言うと、書く人によって物語の味付けはこんなにも変わるんだ!みたいな話でもあります。
 
このノベライズを手がけたのは七尾あきらさんという方なのですが、興味をもってこの方の別の本にも手を出してみたことがありまして。すると、僕がいたく感動した「ビジョンがものすごく広がりまくる感」が、別の本にも、また別の本にも、感じられたのです。そうか、この作家さんはこういうことが得意なのか!というのが大きな発見でした。
 
日常では決して味わえない、想像の限界を超えた想像の世界を、文章によってなかば強制的に見せつけられるという経験。それを「どの本でも」再現してみせているという事実にふるえました。もしかしたらそういう小説技法があるのかもしれない、その予感に僕は感激したのでした。
 
 

俺はその夜多くのことを学んだ

俺はその夜多くのことを学んだ (幻冬舎文庫)

俺はその夜多くのことを学んだ (幻冬舎文庫)

 

 

劇作家・映画監督として有名な三谷幸喜さんの本です。
 
僕は彼が監督した映画は必ず映画館に観に行くことにしている程度には三谷幸喜という人が好きなのですが、彼が成したいろいろな仕事のなかでも特に心に残っているものをあげるとすれば、この本をとりあげたいです。
 
この本はいちおう文庫本の姿をとってはいるのですが、中に書かれているテキストはものすごく少なく、実際には絵本と呼んだほうがいいような読み物になっています。
 
だから読み始めると10分で読めます。比喩じゃなくて、本当に10分もあれば最後まで読めるくらい短いです。でも、その10分の読書体験がその後の人生にずっと残る、そういう類いの本です。大切なことなのでもう一度言います。10分で読めて一生心に刻まれる忘れられない本、それがこれです。
 
ここには短いからシンプルで、でも奥が深い、人生の皮肉と真理みたいなものが書いてあります。恋に悩む男が過ごす、なにか大切なことが分かった気になれる一夜の話です。人生でなにに使うかまだ決めていない10分が余っていたら、これを読むと面白いかもしれません。


惜春(せきしゅん)

惜春 (講談社文庫)

惜春 (講談社文庫)

 

 

学生のころに友達におすすめされて読んだ思い出の一冊です。
 
僕は自分のことをわりと本が好きな人間でそれなりに数は読んでいるものだと思っていたのですが、その人は僕よりもっとたくさんの本のことを知っていました。
 
僕は憧れと、それを塗りつぶすくらいどす黒い悔しさ、感じる必要のない劣等感をもてあますようになりました。悔しかったので、すぐに読みました。そして、これがまあ面白いのなんの! 
 
花村萬月という、名前は知っているけどどういう本を書いているか知らなかった作家にはじめて触れ、そのあまりの面白さにノックアウトされました。そうか、名前が売れている作家っていうのはこんなにも暴力的なまでに面白い話を書くのか、と感心しました。
 
と同時に、劣等感で塗り固められていた心がすーっと晴れていくのが分かりました。素直になろう、自分より知識も経験もある同世代はいるのだ、それを認めよう、と。つまらないプライドは、「本当に面白い」の前には無力でした。
 
それから何冊か本をすすめられて、それを順番に読んでいったのですが、そのことごとくが面白くて面白くて。おすすめの本を読むことは、ただ本を読むこと以上の味わいがあります。すすめてくれたその人が、それまでに歩んできた想像の旅をなぞるに等しく、自分ではない誰かの人生に思いをはせる、そんな隠し味が加わるところがいっそうの面白さになります。
 
彼はこのシーンをどんな顔で読んだのだろう?あの一文の感想を聞いてみたい。結末の意味を確認しあいたい。読書には、読者と読者の語らいの余地があり、いま風にいえばソーシャルな側面があるところが魅力なのかもしれません。そんなことを最初に気付かせてくれたのが、この惜春という本でした。
 
このお話は、裏社会の男にうまい焼肉をおごられてしまった不幸な青年の物語です。焼肉はうまかった。だけどそれが運のつきだった。そんなささいな過ちで、ひとりの青年が風俗店のボーイの仕事につかされる、というところから始まります。業界の内側から見る、恋と、葛藤と、叫び出したくなるような純情の物語です。
 
ここには面白いことしか書いてありません。美化されている嘘も、生々しい痛みも、見事な文章で表現されるとぜんぶが面白く輝きます。登場人物が生きていて、いまも雄琴のどこかにいる、そんな錯覚さえ覚えます。とにかくすみからすみまで面白い本だった、そういう感覚が、時間が経っても消えずに残っている印象的な一冊です。
 


まとめ

以上が、僕の記憶によく残っている大切な5冊です。ランキングではありません。誤解なきよう。並列したブックレビューをひとつの記事に5個書いてしまっている、我ながら情報過多で油っこい書評記事だとは思います。反省はしていません。書いていて楽しかったので。

 これからも、好き!といいたくなるような本に出会ったらこういう記事を書いていこうと思います。

 

それでは、また。